令和3年(2021年)春の叙勲で、旭日小綬章(英語名:The Order of the Rising Sun, Gold Rays with Rosette)を受章した津田佐江子氏の叙勲伝達式が10月22日、在バンクーバー日本国総領事公邸で開かれた。
バンクーバー新報の社主として2020年4月まで41年にわたり、バンクーバー新報を発行することなど、日本とカナダとの相互理解促進に貢献してきた功労が認められた。今回の旭日小綬章受章者には、女優のいしだあゆみさん、歌手の森進一さんら有名人も名を連ねている。
津田氏は小田実さんのベストセラー本「何でも見てやろう」の精神で72年に貨客船でバンクーバーに来たという。貨客船とは貨物船と客船が一緒になったもので、貨物が中心で乗客はたったの10人程度だった。そのバイタリティが、当時、日系コミュニティが強く望んだ日本語新聞の発刊につながった。
伝達式は「気心のしれた人たちと、こじんまりと喜びを分かち合いたい」との要望で、長年バンクーバー新報社で津田氏を支えてきたスタッフや、カナダで苦楽を共にしてきた日系団体の関係者ら10人が集まって受章を祝った。
羽鳥総領事が功績を称える祝辞
式は羽鳥隆在バンクーバー日本国総領事の祝辞で始まった。1978年12月に日本のニュースを知りたい、日本語の読みものを読みたいという日系コミュニティの声に応えようと、仲間数人とともに立ち上げたバンクーバー新報は、移民1世と帰化2世らとの懸け橋としての役割も果たした。
86年にバンクーバーで国際交通博覧会が開かれたこと、日加間でワーキングホリデー制度が始まったことで日本で一大カナダブームが起こる。カナダを訪れる若者が増えた際に求人広告により「先に移住していた日本人と、新たに留学で来た若者との融和・交流を図り、結果として日本人の海外進出や移住の促進にも貢献」したことも受章理由の一つとして挙げる。
さらには日系コミュニティの市場動向からカナダに進出するための物資や手続きに関する情報を紙面で紹介するなど、日本企業をサポートするといった活動も行っていたと驚嘆を示した。
コミュニティをつなぐだけでなく、日系女性企業家協会(JWBA)、日本・カナダ商工会議所(JCCOC)の設立に尽力して会長、さらには日本の海外日系新聞放送協会では女性で初めての会長を務めるなど、リーダーシップを発揮してきた。
羽鳥総領事は「長年にわたり毎週、休むことなく紙の新聞を発行する重責から解放された津田氏の今後の活躍に期待、健康をお祈りします」と締めくくった。
世代間を結び付けた、新報主催のソフトボール大会
勲記と勲章の授与の後、津田氏が謝辞を述べ、歩みを振り返った。バンクーバー新報は創刊翌年の1979年に始まったソフトボール大会、「グリーンカップ」を主催。さらにはパウエル祭の相撲大会、ゲートボール大会といったコミュニティイベントではバンクーバー新報杯を出すなどサポートした。
中でもソフトボール大会は、2010年まで31年続き、津田氏の印象に強く残っている。当初は5~6チームが参加して行われたが、全盛期には16チームがしのぎを削った。
判定をめぐって乱闘が起こったり、手の内を知られたくないと練習も相手チームに知られないように努めるなど、コミュニティが熱くなった。延べ4,500人がプレイしたという。「多くの日系2世や3世も一緒にプレイしたことで、世代間を結びつけることもできました」と当時を懐かしんだ。
NHKのど自慢大会が2003年にバンクーバーで開催された経緯も披露した。カリフォルニアで開催されたときに、当時の海老沢勝二会長に「バンクーバーにも来てほしい」とコミュニティメンバーを送って直接依頼。誘致、開催にこぎつけたそうだ。
「クイーンエリザベス劇場で開かれた大会には300人以上のボランティアが活躍しました。このようにコミュニティの人たちと一緒に多くの楽しいことに関わることができて幸せでした」と微笑んだ。
仲間や元スタッフが祝福
バンクーバー新報は、一時、パウエルストリートの日本食レストランの入っていたビルの2階にオフィスを構えていた。現在、日系文化センター・博物館に隣接する新さくら荘の前身となるさくら荘や、隣組も当時はパウエルストリート付近にあった。
隣組創設メンバーの一人で、バンクーバー新報が生まれる前から津田氏と親交がある山城猛夫さんは、「70年代中盤に朝日新聞のブレインと呼ばれた人の一人が『バンクーバーには戦前は日刊新聞は3紙発行されていたのに、今は日本語の新聞がない。新聞はコミュニティのコミュニケーションのカギだ』と話をしたことが新報創刊のきっかけとなりました」と誕生秘話を紹介した。
一時は記事執筆も担当した山城さんは「新報とともに私も一緒に成長させてもらいました」と語った。
スタッフを代表してお祝いの言葉を贈った安達昭子さんは、1987年1月から8年半、バンクーバー新報で勤務した。安達さんが働いていた当時は6人体制が長かったと振り返った。
「水曜日は『お弁当の日』で津田社長がピザやお弁当を差し入れてくれて、みんなで食べました」と和気あいあいとした職場だったという。
当時はインターネットがまだ普及していない時代で、情報収集は難しかった。日系コミュニティに関する質問は新報に聞けば分かるといった風潮があって、尋ね人の相談なども届いた。そんなときには津田氏自ら情報を求めて動いた。
「刷り上がった新聞に宛て名ラベルを貼り、郵便局に自ら持ち込んでいらっしゃいました。また、届かないと苦情があると、遠くでなければ自ら配達すると、強い使命感をもって仕事をしてこられました」とエピソードを挙げて、「本当に受章おめでとうございます」と締めくくった。
(記事 西川桂子 / 動画 斉藤光一 / 写真 三島直美)
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