昨シーズン、30歳にしてカナダ選手権で初優勝を飾った、キーガン・メッシング選手。オリンピックに初出場したのが26歳ということもあり、「遅咲き」と呼ばれることも多い。
カナダとアメリカの二重国籍を持ち、現在、アメリカ・アラスカ州アンカレッジに住むメッシング選手。日系5世で、高祖父はカナダへの日本移民第一号とされている永野万蔵という系譜を持つ。2021-22年シーズンが終了した5月にZoomで話を聞いた。
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– 2021~22年のシーズンが終わっての感想を教えてください。
20~21年シーズンは多くの大会がキャンセル、あるいは無観客開催となりましたが、21~22年はフルシーズン開催され、ほとんどの大会で観客が入り、うれしかったです。
個人的には21~22年は、前年に大会で戦うことがほぼなかったことで、リズムを取り戻すのに時間がかかり「スロー・スタート」になりました。カナダ選手権で初優勝を飾り、オリンピックに出場できましたし、比較的満足のいくシーズンになりました。
オリンピックでは6位以内が目標で、フリーの2本目の4回転を着氷できたら可能かもしれないと思っていました。でも、ショートプログラムで90点を取っても12位と、極めて高レベルでの戦いになりました。男子フィギュアスケートの歴史を見ても、これまでにない選手層がそろっています。
得点を見ると絶望的な気分にもなりますが、同時にこれだけの才能を持つ人たちと戦うことができたことは、幸せだと感じています。世界選手権では順位を上げるため4回転ルッツに挑戦しましたが、着氷できませんでした。
1週間前の練習で成功、当日のウォームアップでも4回転ルッツ、4回転トウ、3回転アクセル、全て決まって絶好調。メダルに届くのではないかと思うぐらいの出来だったのに、本番では運命の女神に見放されてしまいました。Not with meでした。
ジャンプには失敗しましたが、フリープログラムの後半は緊張やストレスから解放されて、純粋に楽しんで滑ることができました。
ポジティブな姿勢で乗り越えた北京五輪出場の危機
– オリンピックは北京に向かう直前、バンクーバーでの新型コロナウイルス検査で陽性となり出場が危ぶまれました。バンクーバーからモントリオール、そしてヨーロッパ経由で北京入りしたそうですが、なぜそんな遠回りを?
出発日の北京行きを探したら、ミラノから入る便しかなかったのです。まずモントリオールに飛び、フランクフルト経由でミラノ、ミラノから北京入りしました。バンクーバーから北京まで40時間近くかかったと思います。
コロナ検査で陽性になると、4回の検査で続けてすべて陰性になるまでは出場できませんでした。陽性になってから毎日テストを受けて、1週間後の水曜日にやっと陰性になりました。それから木、金曜日と陰性で金曜にバンクーバーを発ち、モントリオールで4回目のテストを受けて陰性。無事、出場できることになりました。
本番前日に到着して、選手村にチェックインして荷物を開けていたら、カナダチームのリーダーからリンクに向かうバスがあと10分で出ると電話がありました。
慌ててバスに飛び乗って、リンクで30分ウォームアップ、ショートプログラムの練習。ビレッジに戻って、ディナーを食べて、寝て、翌日は本番…と目の回るような1日でした。
– 精神的なプレッシャーも大変なものだったでしょうね。
心を落ち着かせるために、妻と何度も電話で話しました。ほかの選手が北京入りして練習をしている様子を見ると動揺するのは分かっていたので、ソーシャルメディアはずっとオフ、メッセージも見ないようにしていました。
ソーシャルメディアを開くと、チームメイトが開会式に出ている姿など見てしまい、ポジティブでいられないと思いました。
オリンピックに行くことについてmaybeやmight、ifといった「もしかしたら」の意味合いの言葉を使うと、コーチからもNo, we ARE going to Beijing(北京に行くんだ)と考えるんだと言われました。
メッセージも読みませんでした。「早く北京に行けるといいですね」という応援のメッセージであっても、自分一人がまだ北京入りしていないという現実を考えてしまいます。「行くんだ」という想いの邪魔になると思いました。
(後編に続く)
キーガン・メッシング
アメリカ・アラスカ州アンカレッジ在住のフィギュアスケート選手。平昌、北京オリンピックのカナダ代表。カナダとアメリカの二重国籍を持つ日系5世。高祖父はカナダへの日本移民第1号とされている永野万蔵。1992年生まれ。
(取材 西川桂子)
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